一下り目 寿的解説
『六ッ むしやうにでけまわす』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
六首
六ッ むしやうにでけまわす
概要
『理を吹く』と、無性に守護が溢れ出す。
むしょう‐に【無性に】
ある感情が激しく起こるさま。むやみに。やたらに。「無性に腹が立つ」「無性に故郷が恋しい」
五首目の説明どおり、『理を吹く』とは善き心を使うこと。
善き心の内訳は、一言でいうと「神様の守護を喜ぶ心」。
子(人間)を喜ばすために拵えた親(神)の守護。
子が親の心を理解し、親の守護を喜んでくれたら、親は無性に嬉しくなり益々喜びの守護を拵える。
これが無性に守護が溢れ出す理の姿。
無限の創造性
神様は全知全能。
全知全能とは全てを知り、全てを造り出す無限の能力。
何も存在しない無の世界から、命、人間、世界を創造し、現在進行形で膨張し続ける宇宙を創造する能力を正しく評価すれば、無限の能力に疑う余地はない。
この地球は人間が陽気ぐらしするために神様が拵えた表舞台。
神様は裏方に周り無限の創造性を発揮し続けている。
毎年、春になると決まって草木が芽吹くのは『自然の理』。
では、なぜ『自然の理』が存在するのか?
春になると意味も無く草木が芽吹くのか?
『自然の理』とは神様から無性に守護が溢れ出す現象。
子(人間)を喜ばせたいと無性に勇む親(神)の心。
朝になり太陽が昇るのも、夏になると蝉が鳴くのも、秋がきて収穫できるのも、冬になると雪が降るのも、春に草木が芽を吹くのも、全ては『子を喜ばせたいと無性に勇む親の心』。
春に草木が芽を吹く。
このたった一つの自然現象を起こすために、裏舞台では月日道具衆が一丸となって働いています。
学校で習った通り、草木が大きく成長するためには、土、水、二酸化炭素、太陽の光など種以外の要素も必要であり、種単体では芽を出すこともできません。
自然全体が見事に調和しながら『春に草木が芽を吹く』現象が起きているのです。
そして草木は人間の生命活動に必要な酸素を排出し、草木が大きく成長することで沢山の実や綺麗な花が咲き、人間の生活を豊かに潤している。
もし人間が手を加えなければ、草木はどこまでも大きくなり、その数も無性に増え続けます。
神様の親心には限界はありません。
人間の喜びを見るために、神様は無限に守護を与える続ける。
この地球上に溢れ出す夥しい恵みは、無性に溢れ出す親心の現れ。
悪しき心
その一方で、人間にとって喜べない与えも世界には存在します。
神様の守護は無限・・・とは思えないような、限界の壁に行き詰まりを感じる現象が、世界中至る所で起きています。
資源の限界 – 化石燃料の枯渇による、石油、石炭、天然ガスの停止。
食料の限界 – 世界の人口増加に伴う食料難。
平和の限界 – 物資の奪い合いから勃発する戦争。
環境の限界 – 温暖化、オゾン層の破壊。
医療の限界 – パンデミックによる医療崩壊。
理性の限界 – 個の利益追求による社会の混乱。
何故、無限の創造性に満ちた神様の世界で、人間が難儀する現象が起こり得るのか?
それは善き理を知らないから。
善き理を知らないから悪しき心を生み出し、『よのなか』(豊年満作)とは正反対の現象が起きているのです。
前回、五首目で説明した通り、善き理とは『人間の理』。
『人間の理』を知らない故に、悪しき心を生み出してきた人間の悲哀。
悪しき心とは無限の創造性に対して「悪しき種」を蒔いているのです。
見るもの、聞くもの、触れるもの、全ては人間が『理を吹く』結果。
自覚的でも無自覚でも、心を使うということは無限の創造性に『理を吹く』こと。
つまり、人間が心を使う度に理の種となり、無限の創造性に蒔かれ、『心通りの守護』を頂くことで『かしもの・かりもの』に現れるのです。
自分で蒔いた種なら、自分で刈り取る必要があります。
『心通りの守護』なら、心通りと喜ぶことが刈取り収穫する唯一の方法。
与えを心通りと喜べば、無限の創造性に善き種が蒔かれ、喜びの守護は益々栄えますが、与えを不足不安で受け取る悪しき心は、無限の創造性に悪しき種として蒔かれ、あたかも限界を示唆する壁として立ち塞がり人間を悩み苦しめるのです。
最近では「新型コロナウィルス」が限界を示唆する壁として立ち塞がりました。
新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、日本でも海外へ渡航の制限、人の密集を避けるためスポーツ、劇場、映画館、会食などの制限、登校や出勤の制限、不要不急の制限・・・
これまで当たり前のように享受してきた日常が失われ、多くの人間が限界の壁に悩み苦しみました。
世界全体を混乱させ苦しめた元凶は当然ウィルスの製造元。
それなら、ウィルスの製造者が悪しき種を世界中にばらまいたのでしょうか?
もちろん、ウィルスの製造者が存在するなら、その道義的責任は問われて然るべきですが、無限の創造性が作動しなければウィルスが製造されることはありません。
つまり『心通りの守護』。
ウィルスの製造者だけではなく、ウィルスの実害に苦しむ我々も『心通りの守護』。
神様は見るも因縁、聞くも因縁と説かれました。
自分が見るもの聞くものは、全て自分の心に起因する『心通りの守護』。
つまり、某国某所でウィルスが人為的悪意により製造されたとしても、自分に実害をもたらす以上は、自分自身が蒔いた悪しき種。
自分が原因を作った訳でも無いのに理不尽に感じるかも知れませんが、見るもの聞くものに悪感情が湧き起こるなら、それは自身の悪しき心が炙り出された結果であり、元々悪しき種を抱え込んでいた証拠と言えるのです。
今回、コロナ禍を体験した多くの人が望んでいるのが「当たり前の日常」。
これまで「当たり前」と思って暮らしていた日常が奪われた時、はじめて「当たり前の有り難さ」を多くの方が実感しました。
コロナ禍を体験して学んだことは「当たり前の日常」など存在しなく、無事無難の連続による奇跡のバランスで一日一日が成り立つ「不思議の日常」。
当たり前の日常、当たり前の健康、当たり前の幸せなど一つもなく、全ては不思議で成り立つ守護の世界。
人間は神様の守護を知らずに、人間の力、自分の手柄と思い上がり、足元を支える不思議に気が付かず、目の前にある喜びを見逃していたのです。
結局、悪しき種の正体とは、あれが悪い、これが悪いと特定できるものではなく、善き理『人間の理』を知らないばかりに、善き心の使い方が解らず神様の守護を喜べない心全般。
新型コロナウィルスが製造されたことが根本的な悪ではなく、神様の守護を喜べない心が悪しき根源であり、結果的に自分自身を悩み苦しめる『悪しき』となるのです。
悪しき心 = 無事無難の日常を喜べない心。
悪しき種 = 無事無難の損失。
新型コロナウィルス = 喜びに気付かせる。
このように、神様が『かしもの・かりもの』を自由用すれば、教理を知らない人間でも心の汚れを掃除し、より大きな喜びに立ち返りますが、それは一時的な救けに過ぎません。
再び元の日常が戻れば、直ぐに有り難みを忘れ、些細なことに不足不安の悪しき心を使い、未来に悪しき種を蒔く愚行を繰り返す・・・
まるで陰気ぐらしの永久機関。
神様を知らなければ悪しきを絶つことはできず、生活に実害を与える現象が神の手助けと知らぬまま、成り来る形に翻弄され悩み苦しむより術はありません。
神様を知らなければ・・・
いや、神様を知った上に、三才心に定まり、理を吹く自覚ある者だけが悪しきを絶ち、無限の創造性に善き種を蒔くこと、神様は無性に勇み立ち、世界から喜びの守護が無性に溢れ出すのです。
さながら喜びの永久機関のように・・・
資源は無限 – 新しい資源が発見・開発される。
食料は無限 – 常に豊作大漁になる。
平和は無限 – 物資は満たされる。
環境は無限 – 天地は穏やか気候は安定。
医療は無限 – 病まず死なず弱らず115歳定命。
理性は無限 – 全体の利益追求による社会の安定。
『むしやうにでけまわす』。
それは、神様から無性に溢れ出す親心。
まとめ
『六ッ むしやうにでけまわす』
人間の親神月日道具衆は、子に喜びを与えたいと無性に勇み立ち、無限の創造性からあらゆる守護が溢れ出している。
これまで一方通行だった親心を人間が知り、自覚的に『理を吹く』ことで無限の創造性に善き種を蒔けば、親の心は益々勇み立ち、新しい喜びの守護が無性に溢れ出す。
無性に溢れ出る親心と無限の守護を実感すれば、心の底から無性に喜びが溢れ出す。
親子共々無性にでけまわす・・・これが、陽気ぐらしの世界。
七首
『七ッ なにかにつくりとるなら』はこちら
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