一下り目 寿的解説
『四ッ よのなか』
全文
一下り目
- 一ッ
- 正月こゑのさづけは やれめづらしい
- 二ニ
- につこりさづけもろたら やれたのもしや
- 三ニ
- さんざいこゝろをさだめ
- 四ッ
- よのなか
- 五ッ
- りをふく
- 六ッ
- むしやうにでけまわす
- 七ッ
- なにかにつくりとるなら
- 八ッ
- やまとハほうねんや
- 九ッ
- こゝまでついてこい
- 十ドッ
- とりめがさだまりた
- (なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと)
四首
四ッ よのなか
概要
『よのなか』とは大和の方言で「豊年満作」。
大和の方言を知らない人が聞いたら「世の中」として意味を捉え、詳しく内容を聞かなければ悟り違えてしまいます。筆者もはじめは普通に「世の中」と思っていました。
これが『みかぐらうた』の難しいところ。
特に一下り目、二下り目は文字数も少なく、まるで暗号のようですが意味が分ればこの通り。
三首目の『さんざいこゝろ』(三才心)を定めると、『よのなか』(豊年満作)になる。
一下り目は「農作物の収穫」に例えて全体の理を説く関係上、最高の結果である「豊年満作」に行き着きますが、これは農作物以外にも当て嵌まる『普遍の理』。
万物が創造され、益々豊かになる理の仕組みがあるからこそ農作物も稔り、人も育ち、産業は発展し、社会は成熟し、次々と新しいアイデアが生まれ豊かな文明が栄えるのです。
つまり・・・
農業 ⇒ 豊年満作
産業 ⇒ 安心、安全、便利で快適な生活の向上
社会 ⇒ 平和で平等な、人々が助け合うい、喜び合う理想社会
環境 ⇒ 台風、地震などの災害もなく自然の恵みに溢れる
人間 ⇒ 健康でいつまでも若々しく
しかし、現実には「豊年満作」とはいかず、物質的な豊かを享受する反面、様々な問題も山積しています。
農業 ⇒ 不安定な収穫
産業 ⇒ 産業による環境汚染、公害が及ぼす健康被害
社会 ⇒ SNSでの誹謗中傷、責任の擦り合い、人の不幸は密の味
環境 ⇒ 山火事、台風、地震、津波など頻繁化する自然災害
人間 ⇒ 様々な生活習慣病の増加、介護問題、ウィルスの脅威
このように『よのなか』(豊年満作)にならないのは、『さんざいこゝろ』(三才心)の定めに帰結するのです。
一粒万倍の理の仕組み
神様は万物の創造主。
人間世界が益々豊かになる理の仕組みを拵えた張本人。
人間のためなら幾らでも守護を与えることはできます。
実際に、宇宙、太陽、地球、その他諸々を創った神様の実績を観察すれば、その能力に無限の可能性を感じずにはいられません。
しかし、どんな素晴らしい守護を与えたとしても、人間自身が喜ばなければ意味はない。
どんな素晴らしい守護に囲まれていても、守護の意味を知らなければ喜びに繋がらないのです。
そのために明かしたのが理の仕組み。
理の仕組みを、農作物に例えて一下り目で歌い上げているのです。
農作物に例える理由は、当時の信仰者の殆どが農家のため例え話として理解しやすい上に、農作物が実る工程から理の仕組みを端的に学べるから。
教組は一粒万倍の理の仕組みを説きました。
稿本天理教教祖伝逸話篇
「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」
農作物は一粒の種が、やがて万倍もの収穫をもたらします。
人間の心も農作物と同じで、神様の田地に心という種を蒔いているのです。
その心の種が誠真実なら一粒万倍の守護に与る。
要するに『さんざいこゝろ』が誠真実で、『よのなか』が一粒万倍の守護。
無形の心が有形の農作物に影響を与える一粒万倍の理の仕組みが明かされているのに、現実社会に様々な問題が山積する理由は誠真実の欠落。
誠真実の欠落
肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。
「ぬか3合、灰3合、土3合」という配分で構成され『肥のさづけ』に豊作を約束する科学的根拠が無いのは言うまでもありません。
『肥のさづけ』を三才心でにっこり受け取り、何でもない「ぬか、灰、土」を畑に蒔く信頼の心。
この素直に神様に凭れる三才心。
この誠真実が効く。つまり豊年満作になる・・・
しかし、『肥のさづけ』は昔話。
『肥のさづけ』以外にも、息のさづけ、水のさづけ、扇のさづけ等、様々な『さづけ』が渡されましたが同様に使われなくなくなり、現在進行形の『あしきはらいのさづけ(てをどりのさづけ)』も昔ほど勢いはなく、その効能に陰りが見えはじめています。
こんな便利で有り難いはずの『さづけの理』が、何故に衰退するのでしょうか?
教祖は『さづけ』をお渡しになる際に、以下のようにお話されています。
同、幸右衞門、御幣、肥授けよう。豊田、忠作、御幣、肥授けよう。これ末代と悟れ。長の道中、路金なくては通られようまい。路金として肥授けよう。
これ末代と悟れ。
末代とは永遠。
頂いた本人が出直しても、大切に代々理を受け継げば、また生まれ変わった時に前生と同じ様に使うことができる。
つまり『さづけの理』は永遠に効能が保証されているのです。
誠真実があれば・・・
肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。
信仰初期の頃は皆んな貧乏の上、警察の取締りや、世間の嘲笑を浴びる大変な道中を通っていたので、「路銀」として真剣に頼る部分もあったかもしれません。
しかし信仰が盛んになり教勢が伸び始め、生活も豊かになると「路銀」の価値が薄れ、誠真実も次第に失われはじめたのか・・・?
生活が豊かになっても身上事情は無くなりません。
現在社会でも身上事情は人間を悩み苦しめる一大事。
しかも、厳しい身上は緊急の案件。
辛く苦しい身上は一刻も早く治めたいのが人情というもの。
そこで『あしきはらいのさづけ(てをどりのさづけ)』の出番・・・かと思いきや、現在は医療も発達し、大抵の病気は病院で治せる時代。
掴み所の無い誠真実より、科学的根拠を示す医学の方が明瞭で解りやすい。
医者に体を任せておけば、こちらの心を誠真実に変える作業工程もなく病気が治せる。
保険も使えるし、相場が曖昧な献金を要求される心配もありません。
もし『さづけの理』より「医者薬」の方を頼り、病の体を神様に任せるより医者に任せる方が安心と感じるなら、それは誠真実の欠落。
今さえ良ければ(一時の救けでよい)我さえ良ければ(自分さえ救かればよい)の我が身思案を大切にして、人を救ける心が無いなら『さづけの理』が衰退するのも当然であり、誠真実の欠落を如実に物語っている。
誠真実の種が無ければ、一粒万倍の芽は吹きません。
路銀の価値
「路銀(旅費)」が無ければ旅行は楽しめない。
「路銀」が無ければ新幹線にも乗れず駅弁も買えず、ご当地グルメも堪能できず、観光地で入園料も払えず、ほとんどの時間を移動に費やし膝はガクガク体はボロボロ、疲れを癒やす温泉にも入れず、夜は寒空の下で野宿・・・
「路銀」が無ければ全く旅行が楽しめないように、「路銀」が無ければ信仰は楽しめず、陽気づくめどころか大して意味のない苦行に陥る危険もあります。
信仰における「路銀」とは、お金やお供えのことではありません。
信仰における「路銀」とは、人を救ける喜び、人が救かる喜び。
具体的には『さづけの理』。
もし『さづけの理』を取り次いだ結果、苦しい病気が治まったら・・・
苦しみを救われた病人よりも『さづけの理』を取次いだ者の方が、絶大な喜びを味わいます。
一方、苦しみから救われた病人の喜びは一時的。
医者薬と同じように、このまま一時的な救けで満足するか?
それとも真の救けに辿り着くのか?
それは救けられた本人が問う次の課題・・・
しかし『さづけの理』を取次いだ者は、真の救けを目撃したのです。
教え通りに理を取次いだだけで不思議が起きる現象は、側に付き添う巨大な神様を在り在りと実感させ、益々勇み心を奮い立たせます。
旅に例えれば、側に億万長者が付き添うようなもの。
有り余る財力のお陰で旅費を気にせず観光を満喫できるように、我が身の心配はなく救け一条に邁進できるのです。
『さづけの理』に保証を与えているのは大宇宙の創造者。
その実力は億万長者どころの話ではなく、無い命、無い人間、無い世界を創造した全知全能の神。
神様はなんでも創造できる。
農作物そのものを創り、豊年満作も司る。
健康も保てるし、病気も治せる。
体を含め全ての有形は『かしもの・かりもの』。神様の自由用。
神様に不可能はないが、人間の心だけは神様にも自由用できない。
心一つは人間の自由用。
だからこそ人間の誠真実だけが頼り。
三才心で素直に神様に凭れる誠真実だけが頼りなのです。
そして誠真実なら「直ぐと受け取る直ぐと返す」と教えていただきます。
誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。
寝返りをした赤子を見て喜ぶ親のように、どんな小さな誠真実でも神様は喜んでお受け取りくださる。筆者もはじめて『おさづけ』で犬の怪我を御守護いただきましたが、今にして思えば形だけ真似た『おさづけ』ゴッコ。誠真実があったとしても、ミジンコくらい小さなもの。
元々人間の中に誠真実は存在しません。
誠真実とは神様の心にだけ存在し続けた概念。
人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思し召して以来、かんろ台一条に定めた月日の心。
それが、この世人間の誠真実。
たった一度『さづけ』を取次ぎ、病が治まらないからといって「おさづけは効かない」と判断して理を疑うことが誠真実が欠落した姿。
疑うべきは己自身の誠真実。
己自身が本当に神様を頼りにしているのか?
神様に凭れていれば本当に安心と言えるのか?
医者薬より、どんな高価な肥料より、神様の方が理があると信じているのか?
かんろ台世界の実現を本気で信じているのか?
『さづけの理』は己を誠真実に向き合わせ、己自身の誠真実を計るバロメータ。
『さづけの理』を取次ぐ時、肝心なのは病の平癒ではなく、己自身の誠真実に向き合うこと。
己自身の誠真実が育てられることが『さづけの理』がもたらす一番の効能。
己の誠真実が熟成され三才心に定まれば、どんな道中も神様に凭れて安心と喜びの心で暮らすことができる。世界中の誰よりも真っ先に『よのなか』を実現し、かんろ台世界の住人となれるのです。
『路銀』とは、かんろ台世界への旅路に欠かせない必需品。
力強く頼もしい神様が側に付き添う証なのです。
誠の人
実際に道の歴史において、誠真実を貫いた誠の人が存在します。
『言上のさづけ』を拝戴した飯降伊蔵は、どんな中も神様に凭れきり誠真実を貫いた結果、神様の思し召しに適い、教組の変わりに神様の言葉を取次ぐ御用人「本席」へと引き立てられました。
『さづけ』を誠真実にした本席様から『さづけ』を渡す御用が本格化したのも大変興味深く、誠真実が生み出す与えの凄さを如実に物語っているのではないでしょうか?
その与えは、まさに一粒万倍の守護。
まさに『よのなか』。豊年満作というわけです。
まとめ
『四ッ よのなか』
『さんざいこゝろ』と『よのなか』は二つ一つの理。
三才心は、どこまでも神様に凭れきる誠真実の心。
その誠真実に豊年満作。万物が一粒万倍に栄えるのです。
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