理ってナニ?
ググれカス!
ググったら余計に混乱してきた。
元の理、年限の理、かしものの理、理の仕込み、理作り、理がある・理がない、理立て、理の親、理の歌・・・
天理教って理を使う用語が多いけど正確な意味が分からない。なんとなくは分かるけど・・・
いいのよ!ちゃんと意味を分かって使ってる天理教人なんて皆無だから。
適当に「理なんちゃら」って言えば信者も平身低頭、分かった気になるから万事OK!
そんな細かいこと気にしてたら陽気暮らしできないでしょ?
成るほど。
理って凄く便利な言葉なんだね。なんだか僕も陽気暮らし出来るような気がしてきた・・・
そうよ!理は魔法の言葉。
理は夢!理は希望!
「理はなんちゃら」って言ってれば、陰気なアンタも、超絶美人なアタシも陽気暮らし間違いないわ!!!
そうよね?寿限無!
いえ、違います。
と、このような誤解が生じないように、今回は天理教に氾濫する「理」を整理してみましょう。
それじゃ・・・
手始めに何かと賛否両論話題になる「理の親」について説明してよ。
アタシは「それってヤ○ザの脅し文句じゃね?」と巷で囁かれる「理立て」について激しく糾弾・・・いえ、教えて欲しいわ!
今回の趣旨は個別の意味を深掘りすることではなく、理を体系的に分類し各用語に込められた「理」の意味を汲取りやすく整理することです。
理を体系的に分類・・・って、タイトルでは「理を整理する」だったでしょうが!
アンタ!一々小難しくするんじゃないわよ!
理は夢!理は希望!
これくらい分かりやすく説明しなさいよね!
わ、分かりましました。
今回は理を三つに分類するだけです。
三つなら簡単でしょ?たった三つです。
ふん、まあいいわ。
言っておくけどアタシに「理なんちゃら」は通用しないからね。
従順な天理教信者とはワケが違うのよ!
部屋の整理も「頻繁に使うもの」と「使わないもの」分類することで使い勝手も良くなると言うし、理を分類して頭の中を整理すればトンチンカンな使い方は少なくなるんじゃない?
そうです。
理を分類し整理することは、神様の意に沿った正しい理の使い方を心得ると言うこと。
いさみさん風に簡潔に「理」を言い表せば・・・
理は神!
理は喜びそのもの!
人の心を自由にし、陽気ぐらしに導くための理が、逆に人の心を束縛し、傷付け、陰気にする現状を放置したままなら道の衰退は免れませんからね。
と言うわけで早速、理を分類してみましょう。
理を三つに分類する
理は大まかに三つに分類することができます。
- 根源としての理
- 法則としての理
- 自由としての理
うわ、最悪。
さっそく何言ってるか分らない。
うん。
逆に難しくなりそうな予感がするよね。
そ、それでは第一分類「根源としての理」から順に説明していきます。
根源としての理
「根源」とは「物事の一番もとになっているもの。全ての大元。」ですね。
神とは何か?
人間とは何か?
人間存在の目的とは?
言うなれば「根源」とは私達人間が最も知りたい真実です。
同時に神様が語らなければ絶対に知り得ない真実でもあります。
故に数ある理の中で肝心要、最重要項目が「根源としての理」に分類されます。
あっ!アタシ分ったかも。
天理教で最重要と言えばお供えだから「理立て」じゃない?それと信者に代々服従を強いる「理の親」とか!
話の流れからすると「元の理」じゃない?
その通り。
「元の理」です。
- 元の理
「元の理」には人間創造の目的、人間が存在する理由が標されています。
人間の陽気暮らしを見て共に楽しみたい
このたった一つの思惑から人間が創造され、私たちが存在しているのです。
そしてこの一文こそが 信仰の対象 なのです。
えーと、
つまり「人間の陽気暮しを見て共に楽しみたい」と思し召す神様を信じることが信仰?
そうです。
「神を信じる」と言うけれど、肝心なのは「神様の何を信じるのか?」。
死後に天国へ誘う神を信じるのも良いし、災いから救うため多額の献金を要求する神を信じるのも自由ですが、天理教の神様は「人間の陽気暮しを見て共に楽しみたい」思惑でつとめ続ける存在であり、そんな神様を信じてつとめ続けることが信仰者としての基本姿勢なのです。
そんな神様を信じてつとめ続ける?
つとめって「おつとめ」のこと?
そうです。
「神様のつとめ」とは陽気暮しする人間を創造すること。
命を生み、体を動かし、地球を回し、太陽を燃やし、火水風、衣食住等、喜びの守護を創造し、その喜びが続くように守護しながら、全ての人間を陽気暮しへ導くことが神様のつとめ。
そして人間のつとめとは「神様のつとめ」を実感し、感謝し、喜んで暮すこと。
その喜びを最高の形で現すのが「おつとめ」です。
えーーーー!四六時中、神様の守護を感謝し、喜んで暮すなんて無理ゲーよ。
息が詰まりそう!
神様の守護を感じていないのに、感謝や喜びの心なんて出るはずないよ。
だから「おつとめ」に出たいとは思わない。
そうですよね。
いさみさんや、いずむ君だけではなく、私達人間は神様の守護をよく理解していないのです。
今はまだ、守護に対する意識が漠然とした状態ですが、もし守護を実感できれば自然と感謝と喜びの心が湧き起こり、勇んでおつとめに出たくなるはずです。
なぜなら「神様のつとめ」とは創造原理なのです。
無い命、無い世界、無い道、無い方法を生み出す不思議な創造原理が「神様のつとめ」。
人間の「おつとめ」とは不思議な創造原理への直参を意味します。
これまで神様だけがつとめていた世界一列陽気ぐらしの普請を、今度は神様と人間が共に手を合わせ成し遂げて行くのです。
「神様のつとめ」と「人間のつとめ」が相呼応し、喜びの相乗効果を生み出して、世界一列を陽気暮しへと前進させるのです。
天理教では毎日おつとめしてるけど、新型コロナの蔓延、ロシアのウクライナ侵攻、日々悪化する世界情勢・・・
まるで世界の終わりに進んでいる様にしか思えないけど?
本当に喜んでつとめでいないからじゃない?
そもそも歌って踊って世界が救かるなんて、それこそ妄言よ!
妄言?
たすけの元である「おつとめ」の効能を理解させるために、「悪しき払いのさづけ」や「お願いつとめ」を許し出し、これまで十分な証拠を現してきました。
しかし、いさみさんの仰有る通り、本当に喜んでつとめていないのかもしれません。
当の信仰者は「悪しき払いのさづけ」や「お願いつとめ」の不思議なたすけを求めるばかりで、日常的に頂く不思議の数々に鈍感で、形ばかりの信仰、形ばかりのおつとめに成り下がっているのかもしれません。
神様が望んでいるのは陽気づとめの完成ですからね。
でも、ここまで信仰して誰も喜んでつとめられないなら、もう天理教に未来はないと思う。
『九ッ こゝまでしん/\゛したけれど もとのかみとハしらなんだ』
天理教団は未だこの感慨にまで到達していないのかもしれません。
でもなんで喜んでつとめられないの?
神さまの教え方が悪いんじゃない?
まあ、確かにみかぐらうた、おふでさき・・・中でもおさしづは超難解ですからね。
本席様以降、お地場には神の機械が存在しない現状も、教理の独自解釈が蔓延する要因ではあります。
理の親とか?理立てとか?
ウフフ。
「喜んでつとめられない」と言うことは、日常生活でも神様の守護を実感して「喜んで暮していない」のと同義。
では、なぜ神様の守護を実感できないのか?
その理由は、第二分類「法則としての理」を認識していないからに他ありません。
法則としての理
「法則」とは、リンゴが地面に落ちる万有引力のように、人間なら誰であろうと等しく支配を受けるもの。
そして「人間の喜びを見て共に楽しむ思惑」を実現させるために整備された完全無欠・絶対の法則。
それが「法則としての理」です。
これに分類されるのは以下の項目です。
- かしもの・かりものの理
- 心自由の理
- 心通りの理(心通りの守護)
詳細は関連記事を参照していただくとして、ここでは大まかな概要を説明します。
体を含め一切の形は神様のもの。形は神様だけが創造・自由用できる。
心だけが人間のもの。心は人間だけが自由用できる。
心と形を繋ぎ、心通りにかしもの・かりものを自由用する不思議な神のみわざ。
これら三つの理は「陽気暮らしを実現する法則」であると同時に、「人間そのもの」を現す理でもあります。
もし「人間とは何か?」と問われたら、「人間とは、体はかしもの・かりもの、心だけが自分のもの、心通りの守護を楽しむ存在」と答えることが正解。
信じる、疑う、に関わらず、全ての人間はこの法則の下に生きているのです。
世の中は不条理ばかりだよね。
病気で苦しんだり、突然事故で命を落としたり・・・
この法則のせいで人間は苦しんでいるの?
不条理に感じるのは「法則」を認識していないからで、法則に従えば全ての物事は「心通りの守護」という条理で成り立ることが理解できるのです。
だとしても、人間が苦しむことには変りないよね?
いえいえ。
これは苦しみから人間を解放し、喜びを永続させるための法則です。
この法則を簡単に説明すると・・・
喜べば、喜びの心通りに喜びの守護が現れる。
人間が喜びの心だけで暮していれば「心通りの守護」は喜びの永久機関になります。
つまり、どんな厳しい病気やトラブルを抱えていても、喜びの心で理を清算すれば、その心通りに病気は治癒し、トラブルは治まる・・・それどころか悪しき原因の発生を阻止しているので病を根絶しているのです。
人間にとって、これほど都合の良い法則は無いと思いますよ?
だけど、実際に病気やトラブルを喜べるかどうか・・・
我慢や喜んだふりでは駄目なんでしょ?
そうですね。
これは神様にすら変えられない永遠不変・絶対の法則です。
ならば不足したり心倒したりする選択肢は無意味どころか、更に悪しき原因を生むことになります。
法則を有効利用し、素直に喜んだ方が得なのですが、心情的に病気やトラブルを喜ぶことは人類にとって至難の技。これまで深層心理に根付いた常識として「不都合を喜ぶ」発想など問題外ですよね。
うん。
不都合を喜ぶってマゾか!?って思うよね。
でも実際は「不都合を喜ぶ」のではなく「心通りの守護を喜ぶ」のです。
だって心通りの守護があるからこそ、不都合の中にあっても運命を立替えられるのだから。
「不都合」だろうと、「心通りの守護」だろうと苦しい状況には変わりないよね?目の前に立ち塞がる苦難を乗り越えて、実際に喜べるかどうか?
そこで信仰が必要になるのです。
人間の陽気暮らしを見て共に楽しみたい
世界中の誰もが喜べない状況でも、神様に凭れたら難なく通ることができるのです。
肝心なのは、心通りに守護くださる神様に安心して凭れる信仰。
凭れる?
目に見えない神様に?
神様は目に見えますよ。
ちゃんと肉眼で確認出来ます。
天保9年におやさまの言葉を通して神様は現れましたね。
実際に神様の姿は見えませんが、おやさまの言葉として神様は現れました。問題はおやまの言葉が正真正銘、神様の言葉か?という一点ですね。
例えば「かしもの・かりもの」は嘘か誠か?
体が健康な時には「かしもの・かりもの」と言われてもピンと来ませんが、実際に病気や怪我をしたり、形が思い通りにならない状況に陥ると「かしもの・かりもの」が浮き彫りになります。
人間は病気やトラブルが起きると「困った、困った」としか思いませんが、実際は神様が形を自由用し「形はかしもの・かりもの」と伝えている現場なのです。
つまり、形が思い通りに動かない状況でこそ「かしもの・かりもの」が闡明になり、神様の存在を目の当たりにできるのです。
要するに僕の体が神様の現れ?
かしもの・かりものが神様そのもの?
その通りです。
皮肉なものですが、何事も自分に都合良く成っている時より、不都合な状況こそ「かしもの・かりもの」を認識し、神様の存在を認めやすくなるのです。
確かに。
病気で体が動かなくなれば、かしもの・かりものと認めざるを得ないもんね。
喜べるかは別として。
そうです。
法則とは信仰の対象ではなく、単に認識するか?しないか?の対象です。
法則は正しいのか?
本当に心通りの守護なのか?
天動説から地動説に認識が変った後で、「いや、やっぱり地面は真平らで天が動いているかもしれない」と後戻りする人がいないように、正しいと認識したら喜び以外の心は選択肢から外れるのです。
だけど地動説は科学的に証明できますが、心通りの守護を証明するのは自身の心。
元の理の一文を信じて、繰り返し繰り返し「心通りの守護」を喜ぶ実践を行う中で認識を高める他ありません。
なるほどね。
ところで天理教の人は、戸別訪問、路傍講演、ひのきしん(無償奉仕)、お供え、おたすけ、おつとめ・・・などを実践しているけど、これも陽気暮らしするために欠かせない法則なの?
それは法則ではなく、第三分類「自由としての理」に関わる事柄ですね。
自由としての理
「自由」とは文字通り「自らに由る」という意味。
「人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたい」
この神の一方的な思惑により、この世に放り出された人間という存在。
神の一方的な思惑ではありますが、神の全責任において、全ての人間に対し平等に与えられた法則
- かしもの・かりものの理
- 心通りの理(心通りの守護)
により陽気ぐらしに必要な条件を揃え、
そして唯一人間が自由用できる
- 心自由の理
を駆使し、自らに由り陽気ぐらしを実現させる天命を担う・・・
それが人間という存在なのです。
もしかして、戸別訪問、路傍講演、ひのきしん(無償奉仕)、お供え、おたすけ、おつとめ等も人間に課せられた天命なの?
いえいえ、それらは選択肢の一つに過ぎません。
神様はあれをしなさい、これをしなさいと指図はしません。人間が望むならどんな方法だって構わないのです。
問題なのは理があるか?理がないか?
理がある・理がない?
もしかして第三分類の理って・・・
そうです。
理がある・理がない。
もし戸別訪問、路傍講演、ひのきしん(無償奉仕)、お供え、おたすけ、おつとめも仕方なく嫌々行うなら、そこに理はありません。
何故なら「自らに由る選択」ではないからです。
これは 心不自由 な状態。
本来、「心自由」と「喜び」はイコール。
喜びなら心自由であり、心自由なら喜びなのです。
「理がある・理がない」のままだと分かり難いですが、「理」を「喜び」に変換すると直感的に意味が通じると思います。
この世、人間を支配する法則は「かしもの・かりもの」「心通りの守護」ですね。
ならば何を選択しても心に「喜び」があれば「理がある」ので心通りにかしもの・かりものが成就し、理のある喜びは陽気ぐらしの礎となるのです。
戸別訪問、路傍講演、ひのきしん(無償奉仕)、お供え、おたすけ、おつとめをしているからと言って神様は特別扱いはしません。
自分で選択しで実行しているのだから肝心なのは「理があるか?理がないか?」
しかし、先ほども説明したように「おつとめ」だけは別格です。
「おつとめ」は人間が選択し得る「喜びの究極」といって過言ではありません。
「おつとめ」そのものに不思議な創造原理が備えられているので、本当に喜んでつとめれば不思議な守護を実体験することが可能なのです。
歌って踊る面白いおつとめで?
そうです。
本当に心から喜んでつとめれば、痛みは引き、熱は下がり、疲労は回復し、究極にはどんな病、天災地変も治められると教えられています。
マジか?
俄には信じられないけど。
そうですね。
先ずは「心通りの守護」を喜ぶ練習をして「理作り」をしないと、「理がある」状態にはなりませんからね。
というワケで「理作り」も第三分類に加えてください。
- 理がある・理がない
- 理作り
それじゃあ、
「理の親」「理立て」も第三分類?
「理の親」「理立て」は戸別訪問、路傍講演などと同じく選択師の一つに過ぎません。
「理の親」と呼びたいなら呼べばいいし、「理立て」したいなら大金をお供えすればいいのです。
ただそこに、理(喜び)があれば栄えるし、理(喜び)がなければ、いずれ誰も「理の親」「理立て」を選択しなくなると言うだけの話。
戸別訪問、路傍講演、ひのきしん(無償奉仕)、お供え等も、理(喜び)があれば続くし、理(喜び)が無ければ続かないのが自然の道理。
そもそも「信仰=布教」の考えも思い違いです。
信仰は布教するためではなく、信仰は陽気ぐらしするためにあるのです。
布教して陽気なら布教すればいいのです。
布教も自らに由る選択で心から喜べて、他人に憂いを与えないのであれば理はあります。
理があれば栄えるし、理がなければ淘汰されるだけのこと。
それは布教に限らず、事業、スポーツ、学業、趣味、ゲーム・・・全て共通です。
何か行う時、『喜びがあるか?ないか?』と自身の心を振り返り、もし喜べないなら、何故喜べないか?独りよがりの喜びになっていないか?と自問してください。
神様の仰る喜びとは周りを勇ませる喜び。
自身が良かれと思うことでも、相手に憂いを与える場合もあります。
喜びの究極とは『他人の喜びを見て共に楽しむ』こと。
だからと言って、他人の喜びを優先して自身の喜びが損なわれたら本末転倒です。
要は、自分の喜びが相手に伝わり、周りも喜びになる。
所謂『にをいがけ』です。
信仰も形式に拘り過ぎると大切な喜びを失うことに成り兼ねません。
天理教的布教方法に有効性が無いのは、年々右肩下がりの教勢を見れば判断できると思いますが、みなさん頑なな態度で続けています。
こうでなければいけない!
こうあるべきだ!
形の拘りは自ら心自由を狭めているも同じです。
形の選択は人間の自由に任されているので、現状を顧みて止めるべきものは止め、改善すべき点は改善しなければ、心自由の持ち腐れ。
元々布教方法や組織構造は人間が決めたものだから、人間が自由に変えて良いのです。
極端な話、奴隷制度を残したまま奴隷に対して『喜んで暮らしましょう!』と言うより、奴隷制度を撤廃する方が誰の目にも喜びだし、ゲームだって改良に改良を重ねた結果、昔ではあり得ない興奮や感動を味わえるのです。
人間の心通りに喜びの次元はどこまでも更新されるのです。
しかし、現状で『自由としての理』で生きている人間は一人もいません。
自由と気儘は違います。
心自由とは、どんな心にも成れる自由、おやさまの心にも、月日の心にも成れるのが真の自由。
『根源としての理』『法則としての理』に基づけば、『自由としての理』の真価を発揮して喜び尽くめの心にも成れるし、それこそ陽気ぐらしも実現できるのです。
理(喜び)があれば神様も喜び勇み、どんな事であろうと必ず心通りの守護が実現します。
理(喜び)がなくても、神様はかしもの・かりものを自由用し、必ず喜べるように導いてくれます。
だから、どんな道中も安心して神様に凭れて、先を急がず、結果を求めすぎず、日々理を思案して喜び勇んで通ることが肝要なのです。
一日二日では違いが分らなくても、喜びが一年積み重なれば理が作られ、目に見えた違いを楽しむことができます。
それが「年限の理」。
というわけで「年限の理」も第三分類に入ります。
- 理がある・理がない
- 理作り
- 年限の理
まとめ
第一分類「根源としての理」で神様の心を信じ
第二分類「法則としての理」で神様の守護に凭れ
第三分類「自由としての理」で陽気ぐらしを実現する
理の使い方に迷ったら理の分類を思い出し
理は神!
理は喜びそのもの!
と唱えれば「理」は必ずアナタを守り、周囲に喜びの匂いを醸し出すことでしょう。
以上、
こんな感じで理解できたでしょうか?
・・・・・
・・・・・
あ、
この人、寝てます。
やっぱり「百聞は一見にしかず」
言葉を駆使して説明するよりも、自らの信仰態度を見て感じてもらう方が百倍分りやすいですよね。
その為には布教による伝道ではなく、求道による伝道・・・つまり自分が教えを実践し、その効能を世界に映すことで自然に伝道する方法こそ真理であり、それこそ神様の思惑に一番適う信仰・・・いや、生き方ですね。
追記
あれ?
「理の仕込み」や「理の歌」はどこに分類されるの?
身上事情は「理の仕込み」。
神様の視点では、病気や様々なトラブルも「理の仕込み」であり、第二分類「法則としての理」を教育する現場になります。
じゃあ、第二分類?
でも「理の仕込み」は法則ではなく、知恵の仕込み、文字の仕込み、理の仕込みと続く人間創造の最終段階であり、元の理に組込まれた計画だから第一分類?いや、1.5分類?
・・・・・
「理の歌」は?
「理の歌」はみかぐら歌を指す言葉で、人間が陽気ぐらしするための手引書的な位置付け。
「喜びの歌」とも言える内容です。
「理の歌」は、朝つとめで人間心から神心に切り替え、一日を喜びに満ちた心で通り、夕つとめでは一日の埃、人間心に戻った埃を払い、神心に切り替える尊い役割を担っています。
第二分類「法則としての理」が一番近いと思いますが、これは法則というより法則の補助的役割、法則をより詳細に身に付かせる役割なので・・・2.5分類??
・・・・・
その他、「二つ一つの理」なんて良く聞く言葉だよね。
「二つ一つの理」は元の理の根幹である創造原理にも関わる言葉なので、限りなく第一分類に近いから・・・
うーーーん、1.11分類???かな????
三つに分類って、
無理があったんじゃない?
それでは
次回の投稿もよろしくお願いします。
フン、誤魔化したわね!
このペテン師!
詐欺師!変態!ドスケベ!エロ親父!
あ!
最悪のタイミングで目を覚ました。
おわり
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