ならん中のたんのう – 桝井伊三郎の場合

天理の考察

稿本天理教教祖伝逸話篇一六 『子供が親のために』は、数ある逸話の中でも特に解釈が難しいと感じます。

おやさまから二度も「身上救からんで。」と引導を渡されたにも関わらず、桝井伊三郎は危篤の母を救けたい一心で三度お屋敷へ足を運ぶことで、救からんと言われた母の命が救われたのです。
救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る。

母を救けたい一心で懸命に運ぶ伊三郎の姿は、逸話としては感動的なのですが、御教理の側面から思案した場合、どうもスッキリ解釈できません。

なぜなら、この逸話は『拝み祈禱』にも解釈できるからです。
と、言うより、
拝み祈禱と解釈した方がスッキリ解釈できるとさえ感じます。

神様は拝み倒せば願いを聞き入れてくださるのか?
お地場の神殿には、沢山の方が救けを求め、必死の形相で手を合せる方も散見されます。

祈り

しかし、天理教教典は拝み祈祷をキッパリ否定しています。

たすけでもをかみきとふでいくてなし うかがいたてゝいくでなけれど(三号 45)

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。

https://wobiya.tokyo/top/tenrikyo-kyoten

母の命が救われる決め手が「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心」。

おそらく、大変な病気を患う身内を抱えた方は皆、伊三郎と同じ心で「無理なお願いでは御座いますが、何卒救けてください。」と願いを込めて、「救からんものを、なんでも」の思いで運ばれていると思います。
しかし、親神様は拝み祈祷の神ではありません。
拝み祈祷で病気が救かるなら、地場神殿は今も不思議な救けが溢れているはず。

みかぐらうた』にも『無理な願いはしてくれるな』と歌われていますが、桝井伊三郎はおやさまが「救からん」と言われる中、無理を押し通したら理が変わったのです。
真実なら神が受け取る

六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい
(みかぐらうた 三下り)

無理な願いはしてくれるな 一筋心に成りて来い

三回に渡るお屋敷訪問の間に、桝井伊三郎の心に理(真実)が作られたのは間違いありません。
諦めず救けを願い続ける姿も『一筋心』と言えなくはないですが、同時に『無理な願い』もしている訳です。

救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心
この心が『真実』としてお受け取り頂いたのも揺るがない事実。

なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ。」のと、「無理なお願いでは御座いますが、何卒救けてください。」と拝み祈祷を運ぶのでは、一体何が違うのでしょうか?

逸話で語られた情報だけでは『真実』と『拝み祈祷』の区別をつけるのが非常に難しく感じます。

そこで、今回は稿本天理教教祖伝逸話篇一六 『子供が親のために』をスッキリ解釈するために、ご教理に照らし合わせた独自解釈により脚色を加えてみました。

以下は元の逸話です。

稿本天理教教祖伝逸話篇一六 子供が親のために

桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は、夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、50町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救けくださいませ。」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで。」と仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へ帰ってきた。が、家へついて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持ちで一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます。」と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん。」と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない。」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。又、トボトボと50町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と、聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何とか、お救け頂きとうございます。」と。すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る。」と、仰せ下された。この有り難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、88才まで長命させて頂いた。

そして次が脚色を加えた逸話です。
↓↓↓

稿本天理教教祖伝逸話篇一六:番外編 子供が親のために(ならん中のたんのう)

元治元年(1864年)、桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は、夜の明けるのを待ちかねて伊豆七条村を出発した。

伊三郎は内心、半信半疑だった。
一年前に父の喘息をおやさまから救けて頂いたが、自身が入信することはなく現在に至っていた。
だが、母の身上が厳しく迫る現実を前に、藁をも縋る思いでお屋敷に向かう決意を固める。

伊三郎:『もう迷っている暇はない!一刻も早くお屋敷へ向かい救けを願おう!』

50町の道のり(50町は約5.45 km(1町 = 約109 m))を歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救けくださいませ。」とお願いすると、教祖は「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで。」と仰せになった。
これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって家へ帰ってきた。

伊三郎:『やっぱり無理なんだ。おやさまでも救けられないなら、母の命もここまでか…』

だが、家へ着いて目の前に病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持ちで一杯になって来た。

伊三郎:『おやさまは救からんと仰られたが、本当に救ける手立てはないのか?
おやさまは他でもない月日親神の社とお聞きする。これまで何度も医者の手離れを不思議な御守護で救けて来られた!
無理を押して頼み込めば、母の命を救う方法を教えてくださるはず!』

それで再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます。」と願うと、教祖は重ねて「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん。」と仰せになった。
教祖にこう仰せ頂くと、伊三郎は「ああやむをえない。」とその時は得心した。

伊三郎:『やっぱり、親神様でも無理なものは無理なのか?これが母の宿命?寿命?これが因縁なのか?』

だが、家にもどって苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。

伊三郎:『神様は母の死に様を黙って見てろと仰るのか?
神様とはそんな無慈悲な存在なのか?
そんなはずはない!
誰にも治せなかった父の喘息を救けて頂いた不思議なご縁、おやさまから「待っていた、待っていた。」と御言葉をかけて頂いた母の命。そんな軽い筈はない!
考えろ!伊三郎!考えろーーー!』

その時、母から聞いたおやさまの言葉が脳裏を過った。

おやさま
おやさま

親神様にもたれていけば案ずることはないのやで

伊三郎:『そうだ!!僕は心得違いをしていた。
母の病気を心配してオロオロと涙し、親神様の思召も聞き分けず、救かる理も心得ないまま、ただ闇雲に救けを懇願するだけだった。
それでは本気で親神様を信頼していることにはならない!
救かる理がないから救からない!
救かる理があれば救かる!
僕は救かる理を運んでいなかった!!
親神様は無い命、無い世界、無い道を創造くだされた元の神、実の神!!
身上はかしもの・かりもの!
身上を自由用くださるのは親神様ただ御一人!
親神様に万に一つも不可能はないのだ!』

伊三郎:『よーーーし!因縁なんて僕が変えてやる!』

これまでは、トボトボと50町の道のりを歩いていた伊三郎であったが、ここに至り、うつむいていた顔はしっかり前を見据え、生気を取り戻した瞳には爛々と希望の灯が燃え盛り、心は親神様を確信した喜びに勇み立ち、50町の道のりを物とせずおやさまの元へと歩み続けた。

お屋敷へ着いた時には、もう夜になっていた。
教祖は、もうお寝みになった、と聞いたのに更にお願いした。
「ならん中でございましょうが、何とか、お救け頂きとうございます。」と。

本当は、親神様への感謝の気持ちを伝えるつもりだったが、おやさまを前にすると緊張で上手く言葉にできなかった(あ、やっちゃった…)。

しかし、おやさまは伊三郎の凛とした佇まいを見るやいなや、満足気な表情でコクリと一つ頷くと、母キクの命が救われたことを告げられたのです。

救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る。

その言葉を聞き、伊三郎は涙した。
それは今までとは違う嬉し涙。
母の命が救われたことはもちろん嬉しいが、もっと嬉しかったのは真実の親神様を掴んだこと。
この時、生涯おやさまに御供すると心を定め、入信を決意した伊三郎であったが、実は心得違いを悟ったあの瞬間から一筋心を定めていた。

無理な願いではなく、一筋心で親神様に凭れたあの瞬間に、理の無いところに理が作られ、消えかけていた命の灯火が力強く燃え盛り、無い命が救われたのです。

この有り難いお言葉を頂戴して、キクは救からん命を救けて頂き88才まで長命させて頂いた。

いかがでしたか?

元の逸話だと、伊三郎に心の変化は見られず、ただ一方的に「たすけて欲しい」と救けを懇願するばかりに読み取れるので、どうしても拝み祈祷に感じられましたが、伊三郎に心の変化(人間心から神一条への心の立替)を加えることで、おやさまが「真実なら神が受け取る。」と仰られた理由も、自分的にはすんなり理解できる様になりました。

救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心

運ぶ心」とは50町の道のりを足しげく運んだ『形の運び』ではなく、親を救けたい一心で親神様の理をしっかり思案した『心の運び』。

子供が親のために真剣に思案を重ね、人間心(病状の不安、絶望、悩み)のロジックを打破して、神一条(親神様に凭れる安心、希望、喜び)へと立て替えた真実が理の種になり、親神様にお受け取り頂けた、と考えています。

理作りの主眼は、あくまで心の立替(心作り)であり、形の運びではありません。
50町の道のりを何度も往復した形の運びが評価された訳ではなく、神一条を心定める思案の工程『心の運び』により理が作られた。

・三年千日お願いし続けたから真実?
・神殿の回廊を何百回も拭き掃除したから真実?
・お供えを幾ら収めたから真実?
・教会に奉公したから真実?
・路傍講演や神名流しを沢山実施したから真実?
・全教ひのきしんに参加したから真実?
・毎日おつとめを運んでいるから真実?

これらは、あくまで信者各位の自由選択(趣向)に過ぎず、形の運びだけで理(真実なら神が受け取る)が作られることはありません。
会社の業務と同じで、社内(教内)での評価は上がるかも知れませんが、親神様が見定めているのは信者各位の『心の運び』。

Q.何故、母キクが危篤に陥るのか?

A.かしもの・かりものの理を仕込むため

Q.何故、伊三郎は母の身を案じるのか?

A.かしもの・かりものを知らないから

親神様の思いはただ一つ、かしもの・かりものを心得て、神に凭れて安心して暮らして欲しいのです。

かしもの・かりものを心得ていないから、先案じ・我が身思案が横行し、自分を守る為には酷い心を使わざるを得ないのが人間心の悲哀。
人間心は陰気ぐらし。
表面は豪華に着飾り、陽気な素振りをしていても、その内面(心の根)は人間心が蔓延っているので、何か不都合が起これば忽ち酷い心が顔を出し、理性をかなぐり捨てても自分の身を守ろうと必死になる。
TVやネットニュースで恐ろしい殺人や窃盗・詐欺事件が頻繁に報道されますが、それは特殊な人間による常軌を逸した非日常ではなく、人間心の根を抱えている限りは、誰の身にも起こり得る背中合わせの日常なのです。

だから親神様はそれぞれの因縁を利用し、身上の障りを見せて、かしもの・かりものの理を仕込むのです。
かしもの・かりものを心得て日々神一条の心で安心して暮らして欲しいから。
かしもの・かりものに丸凭れになり、どんな中でも神一条の心で楽しんで通っていれば、過去の因縁は切れて、その楽しんだ心通りに良き因縁が結ばれる。

実際に、人類の叡知を結集し、かしもの・かりものの範囲を観測したら、全ての人間は親神様に丸凭れで生存している事実が鮮明になります。
人間の体をつぶさに眺めてみたら、60兆の細胞で構成された人体は神秘の塊。
心臓、血流、消化、栄養の吸収、排泄等、人間がコントールしなくても勝手に機能は維持され、寝ている間でも心臓や呼吸も止まらず、疲労回復やメンテナンスが行われ、傷や病も自然に治癒されます。
そして、人体だけがかしもの・かりものではなく、生命活動に必要な要素、火水風、衣食住、地球、月、太陽、銀河系…と辿って行けば、宇宙丸ごとかしもの・かりものであり、親神様に丸凭れ状態で人間世界は成り立っているのです。

その真実を心得ず、俺の手柄、俺の力、我が俺がと我が身思案に執着し、人間心で陰気ぐらしを余儀なくしているのが人間世界の現状。
天保9年に親神様が人間世界へ現れて、何か委細(かしもの・かりもの)を説き聞かし、世界の心を勇めかけたのです。

伊三郎は、かしもの・かりものを心得たから喜びに勇み立ち、人間心の常識では喜べない難儀な最中に不思議な心(たんのう)を運び、その心通りに不思議な守護に与ったのです。

ならん中のたんのうは誠

母キクの病は『心通りの守護』。
桝井一家が運んだ心通りの『かしもの・かりもの』を見ている。

でも神に凭れたら何も案じることはない。
人間世界を創造した親神様がその全責任において『かしもの・かりもの』を司り、人間の『心一つ』を陽気に向かうように守護しているのだから。

伊三郎は、親神様(かしもの・かりもの)に全信頼を委ね、「救からん」因縁を喜び勇む心で応えることで、前生懴悔(ならん中たんのうするは前生さんげ)で悪因縁が抹消され、一つの理(母キクの病)を完結させたのです。

明治三十年十月八日 南紀支教会長下村賢三郎母しま七十四才身上願

さあ/\尋ねる事情/\、身上一つ尋ねる事情、さあ/\何ぼうでもならん。ならんから尋ねるのやろ。尋ねるから前々諭したる。事情どうにもこうにもならん道から道運ぶ最中、年々だん/\年々送りたる中から分かりある。事情身上どうであると日々思う内々中に、これではなあと思う。よう聞き分けて、たんのうしてくれ。たんのう中、ならん中たんのうするは誠、誠は受け取る。ならんたんのうは出けやせん。なれど一つ、ならん一つの理は、多くの中見分けてたんのう。ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。ようこれ聞き分け。これだけ諭したら、自由の理は分かるやろ。

伊三郎の逸話が元治元年(1864年)、おさしづが明治三十年(1897年)なので、御教理の年代が交錯していますが、おやさま時代でも教理の基本は変わらないはずです。

これは大事なことなので念を押しますが、伊三郎が歩んだ50町の道のりに大した意味はありません。
お屋敷までの距離が離れていたから50町歩かざるを得なかったので、もしお屋敷の隣に住んでいたら50歩程度で済んだ訳です。

距離が近くても、遠くても、心を立て替えたら理は鮮やか。
どんなに長く信仰した道の玄人でも、かしもの・かりものを心得なければ人間心のまま。
昨日今日、信仰を始めた人でも、かしもの・かりものを心得た瞬間に、どんな身上も不思議に治まるのです。
なぜなら、かしもの・かりものの理が治まれば、もう理の仕込みの必要ありませんからね。

どうです?
みなさんはスッキリしましたか?

それとも逆にモヤモヤしましたか?
劇画教祖物語では終始泣いている描写しかないので、当然、異論・疑問もあると思われます。
(↓こんな感じ)

しかし、伊三郎の熱意にほだされて、親神様が気まぐれに守護を与えることは理として有り得ません。

身の内は神のかしもの・かりものの理を諭するには、心は我がもの。心通り神が働く。
(おさしづ 明治二十四年七月七日)

身体は神のかしもの・かりもの
心一つが人間のもの
心通りの守護で心が形に成る

誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。
(おさしづ 明治二十二年十一月十一日)

誠(真実)は直ぐに受け取り直ぐに返す

そこには神様が見定めて受け取る理が必ずあるのです。

この頃は道の黎明期、辻忠作が妹の救けを願った時も、特に理の説明もなく『つとめせよ』と言われ、『なむてんりおうのみこと~』と繰り返し拍子木を叩くだけの形の運び、これも見方によっては拝み祈祷です。
この頃のお道は、理の仕込みの初期段階なので、道の先人として称えられる殆どの方は、おやさまの指図を素直に従うだけで、不思議な救けに与っていました。
大難を小難で返す様に、小さな真実を大きな真実をして受け取り頂いたのです。

現在は理の仕込みも段階が進み、無理を押して願いをかけても理は通じず、今回、私が脚色した逸話の様に、しっかり理の思案が必要な段階を迎えていると感じます。
いくら昔の真似事を運んだところで、不思議な御守護を頂ける道理は無いのです。
例えれば、因数分解の公式が必要な計算を、足し算と引き算で挑むような無茶な運び。

と、いう訳で、
私一人がスッキリしたまま、本投稿を終わらせて頂きます。

以上、『ならん中のたんのう – 桝井伊三郎の場合』でした!

コメント

タイトルとURLをコピーしました